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(^僧侶^)「悪源太」というあだ名ですが「悪」とは悪いと言う意味ではなく「強い」という意味です。「源太」は「源氏の長男」という意味です。母は三浦義明の娘と言われ、三浦氏は現代では坂東武士として有名ですが当時は身分が低かったんですね。
(^石切^)なるほどそれでいまいちマイナー武将だと (^僧侶^)そうです。悪源太は、袴の股立ち(ももだち・左右の側線の部分)をとり、石切という太刀を抜いてざんばら髪になって戦う。「悪源太ここにあり。さあかかってこい。」というや走り出す。と平家の侍は左右にざっと退く。義平は真っ先に向ってきた者を2、3人斬り伏せ、 土塀の屋根に手を掛けてひらりと飛び越え、家伝いにどこへともなく消えてしまった。 という記述もあります。石切丸は頼光四天王の一人の、碓井貞光に酒呑童子退治に用いたとされる太刀です。平姓の持つ太刀なんですね。 主な逸話は、 『平治物語』によるとこの時、義平は19歳、八龍の鎧を着、石切の太刀を帯び、葦毛の馬に乗り敵を待ち構え待賢門は藤原信頼が守っていたが、そこへ清盛の嫡男・平重盛が攻め寄せ、怯えた信頼は戦わずに逃げ出し、門を突破されてしまった。義朝は「大臆病者が、もう待賢門を破られてしまったぞ。敵を追い返せ」と出撃を命じた。「承知」と叫ぶや義平は鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎を率いて駈け出した。義平と坂東武者17騎は重盛の500騎にど真ん中に飛び込んで散々に戦い、これを蹴散らしてしまった。義平は重盛に組みかかろうと内裏の左近の桜、右近の橘の間を7、8度も追い回した。重盛は混乱した兵を収拾して一旦退き、新手の500騎を得て再び門内に押し出した という、左近の桜、右近の橘ですね。 それと、最後が 義平は六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けた。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまった。義平は六条河原へ引き立てられた。太刀取りは難波経房。「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野で待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ」と憎まれ口を叩くと、経房へ振り向き「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答えて義平は斬首された。享年20。それから8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行った時、にわかに雷雨となり、雷に打たれて死んだという。 雷伝説でしょうか。 つづく PR |
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