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BASARAも新作出たらしいので
つるちんがどいつで伝来したのか考えてみた。 元禄16年(1703)8月3日付の本阿弥により金二百枚の折紙が付 享保年間までには仙台伊達家に渡っていた のでつまり1703~1716年あたり。 その時伊達藩主は伊達 綱宗。 正宗の孫で、六男・・・ってまた6男かよ?!伊達家は6男に何かあるんです?!! ええと、 仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧[1]であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族大名であった岡山藩主池田光政[2]、柳川藩主立花忠茂[3]、宮津藩主京極高国[4]と相談の上、老中・酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。 にもかかわらず綱宗の放蕩は止まず、ついに1660年(万治3年)7月9日に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。7月18日に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居して[2]、作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。綱宗が酒色に溺れ、わずか2歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになったのである。だが、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けやつるし斬りなどは俗説とされる[3]。これに対して、綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、保身のために暗愚なふりをしていたとの説もある。実際綱宗は風流人で諸芸に通じ画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」(六曲一双 紙本金・銀地著色)をはじめとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。また、藩主交代そのものが仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力であるとの説もある。 これは名君の予感?! まあ、つるちん(平家刀)入手するくらいだからアホホのフリしてたんでしょう。 伊達家は何か、本当にこういう人達ばかりなのです。 カリスマッ ちなみに1代とばして伊達 吉村で陸奥藩は最盛期になります。米バブルで。 伊達 吉村用の君主刀で購入されたのかな? PR |
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