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何故なら男性性は日本昔話などにあるからです。
とりあえずパヤオが色々な昔話の英雄を最高傑作凝縮したらしい アシタカさんが現代一番男らしいとは言える。桃太郎、金太郎枠ですね。益荒男。 ただ、キャラとかは解るが、言語化した男らしさとは何ぞやとかになると 新書とか1冊分になってしまいそう。 ただ女性性が全然わからなくてですね 何かこれという何かって男らしさ以上に抽象的なんですよ。 かぐや姫みたいに知能で男コロコロするのが女性らしいんでしょうが すげー抽象的でしょ? ![]() 多分戦後何か女性性がおかしな方向ブーン飛んでいったのも これが女性性です!ドーン!!みたいなのが何かないからなのではないかとは思います。 そもそも優しさや勇猛さは男女とも兼ね備えてるものなので これという差っていうと何かようわからんのよねぇ~ 例えば媚とかも、男も媚ってあるやん? なんかね~そういうね~凄く簡単で難しいんですわ~ PR |
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東映のマークの元ネタ
![]() 三銃士は、実は3部構成で一番人気のある三銃士時代のお話が三銃士の元ネタで ダルタニャン物語の半分以上を占める3部のブロジョロンヌ侯爵は全然人気なくて映像作品で観た事ありません。マジで。 2部の二十年後は、ルイ14世の治世で一番面白そうなんですが、時代的には面白いのにキャラ的にはみんなおっさんになってるから現代人におもしれーわけねーですわ。 というわけで キャラ全員が全盛期ピチピチヤングな三銃士が何回も映像化されるという始末なんです。 このゴキゲンな挿絵とか最高だよな!! ![]() ただねー、三銃士自体よりも、作者のデュマの破天荒クズぶりの方が有名かもしれません。 ダルタニャンは実在の人気騎士をモデルにしてるんですが、原作だとダルタニャンは人妻に萌えるNTR野郎なんですが実在のシャルル・ド・バツ=カステルモールはフーケ(鉄仮面伝説とか色々噂ある人)関係で有名になった騎士なのでデュマの創作部分かなり多いね~ 映画のFF飛行船の奴が一番史実に近いかも・・・・・ あの映画デュマのそっくりさんを三銃士の使用人の人に配役しててすげえと思いました。 追記> 「仮面の男」がデュマの鉄仮面部分のみ映画化という事になってますが どっちかというと鉄仮面の原典の方を元にしてる(そもそも三銃士設定が名前だけや・・)ので ちがうんじゃないかなあ・・・・・ ブロジョロンヌ伯爵は、ダルタニャンが死ぬ所までのお話なんですよ~ だから何故かお姫様とラブコメしてたり、年齢が違い過ぎたり、ダルタニャンというと無理が・・・あると・・・いや、これ公開当初からダルタニャンよりも鉄仮面の原作(ややこしい)だって色々特集組まれてましたしねえ・・・・ |
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この辺が詳しいかも。よくわかる~
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/moepre/50080518 この辺が名文すぎる アイドルに憧れる少女たちがそうであるように、乙女たちも先生方の模倣を始めます。当時の代表的な作風は以下の通りです。 ・退廃的なポエムやモノローグ。 ・謎のリボンで拘束されたキャラクター。 ・ナチスの軍服を着せる。 ・90年代ビジュアル系のようなファッション。 ・とにかく血と羽と十字架。 ・必要以上に英文を使う。 大多数の同人少女がこの熱病に侵され、若々しい作品を生み出していきました。 【そしてトラウマへ】 ところが、とかく流行は過ぎていくもの、熱病はさめるもの。思春期を過ぎ大人になるにつれて、同人少女たちは自らが生み出した迷作に苦しみ出すようになります。 何でこんなもの描いてしまったんだろう…。 何でこんなものを得意気に友人に見せてしまったんだろう…。 若かったんだと微笑ましく忘れるには、それらの作品は少々パンチが効きすぎていました。 そしてこの恥ずかしさが、御三方に熱狂した年齢層の腐女子の中で、一種風土病に近いトラウマとなって沈殿していきます。 ゆな助はとても言動その他が、最盛期ゆんてんてーにクリソツだと思ってました。 必要最低限しか描かない所とかソックリです。 絵の唯一無二さは、最盛期ゆんてんてーが上だけど、この辺はアナログとデジタルの差なんだろうなあ・・・・・・ ゆな助はとても言動その他が、最盛期ゆんてんてーにクリソツだと思ってました。 今もです。えっへん! ![]() |
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佐々木小次郎がキリシタン暗殺とすると、どんだけ前からもめてたのかなんかようわからなくなってきたので纏めてみる。
1587年の禁教令(バテレン追放令) 1612年(慶長17年「岩流」は剣豪宮本武蔵に挑戦 アッ そんな前から禁令出てたのか!! 決闘に至った理由も、弟子らが互いの師の優劣で揉めたことが発端と記されており、過激な門人らの争いが一連の騒動を引き起こしたとされている。とか、説が色々だなあ。 武公伝が正しいんだろうけど 幕府側と証言が相違してるのも何か怪しいよね。 柳生さんまとめ。 柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣[編集] 豊臣秀吉の死後家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成達西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り[5]、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となった。[6][7][8] 慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め[9]、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀(大天狗正家[10])で瞬く間に倒したという |
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